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「流出」
2015、ブリキ、H30xW25xD40cm


大森 博之 展
OMORI Hiroyuki
2016.03.01(火)―03.19(土)
※土曜5時まで、日曜・月曜休廊

        制作の手前で

    化粧坂
 冬の晴れた空にぽつんぽつんと雲が浮かぶのを、しばらく立ち止って見ていると、微妙に形を変えながら動いていて、その変化に気づくと、少し前の雲の形がいったいどんなだったか忘れている。そしてぽつんぽつんが、謎として残る。
 古木の年輪の芯が腐り空洞である。その跡形は人の横顔に見える。またそれは底の見えぬ井戸のような深い暗闇で、入口に赤い「夢」の文字が浮かんでいる。北辻さんの去年の年賀状に刷られた写真の作品をしばらく眺めた。時間があったので鎌倉を歩き回ってきました、四十半ばにもなると死は意識するものでね、化粧坂ってやっぱりなにか・・・・・。静かに語りつづける北辻さんの声につられて、なかば消えかけていた記憶の表面を削ると、奥の方で発酵した記憶が現れた。木炭の黒い井戸の底に幼児の顔が浮かぶルドンが出現し、群青のパステルの粒子に埋もれ沈んでゆく頭部、(北辻さんの作品だと思うが)が顕れた。それらがゆったりと溶けて崩れて消えてゆくのを、舌で味わい肛門から棒のように排泄した。肉体を通過して出てくる自分との差異や摩擦に自分の感覚が反応して出てくるものがあって、それには顔がなかった。二十数年前が昨日のざらざらした喉の震えとともに赤い夢となって、群青のパステルの粒子の中に吐き出されてゆく。
 デッサンしたり粘土を捏ねたり石膏を彫ったりしていくと、しだいに想念が形を表してくる一方で、時間に練り込まれ折り畳まれ自分の手で汚れた物質が想念の後ろで蠢いてくる。作品にとって、想念は化粧領域である。形は外部の光にさらされた表面である。形は物質の蠢きで常に崩れている。

    枯野
 京急横浜駅で途中下車して、駅中二階の喫茶店で時間をつぶす。窓際の席に座り、晴れた冬の朝の景色を眺めながら、コーヒーを飲む。左にシェラトンホテル、右にモアーズのビルを挟んで、奥に水色の空を背にヨドバシカメラの看板が見える。その看板辺りに日があたっていて明るく、あまりにも単純に赤い文字がヨドバシカメラと読める、そのなんとなく超然とした様に「明るさの神秘」を感じてしまい、しばらく浸る。看板と私の間には、他のビル、JRと京急駅ホームの屋根や電線、それら外の景色は細い鉄線が格子状に入った窓ガラスで遮られ、手前にはコップの置かれた褐色のカウンターがある。観察すれば、邪魔なものがこんなにもあって、偏在する光は邪魔なもの相互の影や陰で明度を下げ冷え冷えとした現実を横たえている。そして、その向こうに見える看板だけが光を全身に受けて裸にされている。その初々しさ、その羞恥と同時に現実には関心もない超然とした様。いいね。「明るさの神秘」は官能を挑発するのか、官能的な交差の果てに訪れるのか。したがって、邪魔なものは邪魔にならず、手や舌となって奉仕することになる。日常に潜むこの現象を、自分の表現として排泄する者は変態である。高浜虚子の「遠山に日のあたりたる枯野かな」は、晩年のセザンヌのサント=ビクトワール山を思わせる。遠山もサント=ビクトワール山も遠くに見えるけれど遠くにはない。見る/描くことは、サント=ビクトワール山を舌で舐めることだ。舌で舐められることでじくじくっと隆起してくる山は唾液で溢れてらてらと反射している。枯野には唾液が流れ込んでくる。しかし、その溢れ出る唾液によって摩擦は減退し、さらに奥に進もうとすると滑る。老いるにつれて唾液の分泌は減り、それ故に摩擦は増大し欲動は増すだろうが、舌自体は衰える。「じくじくっ、」の度に欲動と衰弱の落差は広がり、その断層に現実のでもなく画面のでもないサント=ビクトワール山が生まれる。晩年のセザンヌの苦痛と歓喜、高浜虚子の筆舌に尽くしがたい枯野の官能。
 ほんのひとときの妄想から覚め、再び京急電車に乗る。通勤時間も過ぎ客もまばらな車内、端の席に座っている女子高生の太腿に日があたっていて白く眩しい。

                            2016.2.27 大森 博之


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