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「天之常立 No.1」
2012年、キャンバス,アクリル絵具、60.6x50cm(F12)




「國之底立 No.2」
2012年、キャンバス,アクリル絵具、53x53cm(S10)


企画
黒須 信雄 展
KUROSU Nobuo
2013.06.17(月)―06.29(土)
※土曜5時まで、日曜休廊

 『創世記』では「光有れ」との神の言葉とともに光が顕れる。この場合の光とは広義に見て存在と同義である。概ね絶対神を戴く思考は存在を基底にしているが、無論それは形而上学に於てばかりでなく、具體的に思考し得ないと云う點で〈存在以前〉は存在論の範疇からも外れるものだろう。
 それに対し、『古事記』冒頭の獨神は出現即消滅であり、「有れ」と云う意味での存在には未だ至らないと同時に、すべての果てに既にして顕在してもいる。当然ながらそれは、前にも述べたように具體的に思考し得ないゆえに現実との接點を持たない。存在ならざるものに触れることは存在者にとって事実上不可能なのである。然しそれなら何故、獨神などと云う奇妙なものが考えられたのだろうか?おそらくそれは論理的に導かれたものではなかろう。否、そもそも「光有れ」と云うのも現実観察から論理的に導かれたものではなく、原感覚が存在の発出相をそう把捉したのではないか。ならば、古代日本には原感覚として存在を「有れ」の側にのみ固定するのに満足しない傾きがあったのかも知れない。寧ろ存在と非在のあわいにこそ世界の起源を見たのかも知れない。
 〈あわい〉の感覚。それは獨神のみならず、国生み神話で蛭水子を最初の子としてすぐに流して了うことにも、黄泉比良坂での死の復相性にも、天之岩屋戸に於て明かされる闇の視覚の階梯にも、須佐之男の彷徨にも、濃密に満ちている。存在の彼方に〈有りもしない〉ものを透視すること、これは実の処、時としてアニミズム的であり唯一的な価値を持たないと評される神道的思考に於ける絶対価である。
 存在に立脚しないことが存在形式の転換への重要な契機となるのは云うまでもない。無限階梯の顕現と喪失を内在化することに於て絵画が自律的に成立することに鑑みれば、『古事記』上巻に揺曳する〈何ものでもない〉未成とあわいの感覚が教える処は尠なくない。
 更に、本質的に〈虚〉に据えられる絵画は〈無〉と云うゼロポイントを通して〈実〉に対照されるが、存在以前と云う〈有りもしないもの〉を意志することによって〈虚〉から更なる〈虚〉へのゼロポイントの不可能性を可能事の極限に開示しもする。そこに於ては、一切は溶解して了うかもしれない。絵画に於けるそのような試みは現実的には何も齎さないかもしれない。然し、仮に非現実的にではあっても想起され得るものならば、必敗の覚悟を以て挑むに如くはないのではないか。
 おそらく絵画は既にして何処にも有り未だ何処にも無いのである。
                    二〇一三年四月記
                            黒須 信雄


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